住友金属鉱山の歴史
1860年頃〜 幕末・明治維新の危機 西洋技術の導入(近代化)

別子銅山への経営集中

幕末からの動乱期、住友の事業はその渦中に巻き込まれるように、幾多の大きな問題に直面します。倉庫が差し押さえられ、さらには別子銅山の接収を受けるなど、危急存亡の危機に立たされます。そうしたなかで、当時の別子銅山の支配人である広瀬宰平(下記参照)は懸命な努力を持ってこの危機を乗りこえました。その後も、経営が極度に苦しくなるなかで、家中において別子銅山売却の動きが起きたことに反対し、諸施策を講じて別子銅山の回生を図りました。

マイニング技術の革新

明治期の別子

1874年には、生産能力の増強をめざしフランス人の鉱山技師ラロックを雇い入れ、西洋技術の導入を図ります。ラロックは欧米の採鉱・冶金学上の見地から別子銅山の稼行方法の改革点などについての目論見書を作成しました。また別子銅山では、1882年にダイナマイトでの掘削が採用され、1891年にはさく岩機を導入するなど、新技術の導入が行われました。さらに1890年から別子鉱山鉄道の敷設に着手しました。

洋式製錬の導入

第四通洞(昭和期)

製錬関係では、1884年、新居浜に洋式の銅製錬所を建設して試験操業を開始。1888年には設備を拡張して本格操業に移行しました。その後、別子鉱山鉄道が新居浜まで開通したことで、輸送能力が飛躍的に向上し、製錬所の処理量も大幅に増加しました。このような西洋技術の導入によって別子銅山は大きな技術革新を果たし、1897年の年間産銅量は、30年前と比べて約6倍にあたる3,500トンを記録しました。

広瀬宰平(1828~1914)と別子銅山

別子銅山の危機克服

広瀬は、幼少の頃から別子の山に住み、坑内へもたびたび入りながら、莫大な鉱脈の眠る宝の山であることを熟知していました。広瀬は、別子銅山の接収に訪れた土佐藩(高知県)の川田小一郎(のちの日本銀行総裁)に対して、「別子銅山は確かに幕府領であるが、住友家が独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである」と訴えました。広瀬の国益思想は、川田の心を動かし、両者の出願によって、新政府から正式に別子銅山の継続経営が許可されました。

別子銅山への事業集中

1871年、広瀬は新政府より生野鉱山の視察を命ぜられました。生野鉱山ではフランス人の御雇外国人・コワニエと出会い、黒色火薬を用いた近代的採鉱法を教わります。そこで広瀬は、別子銅山の再生には西洋技術の導入以外に途はないと確信しました。また、別子銅山への事業集中を図るためには、不採算となっている事業を切り捨てる必要があり、広瀬は、伊豆金山視察のついでに東京に立ち寄り、中橋(中央区八重洲)両替店と浅草札差店の金融店部を閉鎖しました。

別子銅山の近代化

広瀬は、フランス人技師ラロックの「別子鉱山目論見書」を参考に、東延斜坑の開削、牛車道の着工などの採鉱・運搬の近代化を進めました。第一通洞の工事ではダイナマイトを導入し、着工から4年後には全長1021メートルの通洞をみごと貫通させています。その後、還暦祝いに欧米諸国を巡遊した広瀬は、北米ロッキー山脈のコロラドセントラル鉱山で、断崖絶壁を縫うように走る山岳鉄道を見て、別子における鉄道の実用化を図りました。

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