住友金属鉱山の歴史
1950年頃〜 電子事業の開始 別子閉山

電子事業への参入

高純度ゲルマニウム

1950年代以降、貿易の自由化により日本国内の金属販売価格は大幅に低下しました。これに対し、金属を加工し、付加価値をつけて販売することで収益を確保する方針が示されました。1960年、電子材料の製造子会社として東京電子金属(株)を設立(のち1966年に本体に吸収)、予想される電子化時代に向け、非鉄金属を用いた電子材料の製造を開始しました。初期の製品はラジオ向けの高純度ゲルマニウムや、トランジスタ・IC 用合金であるアロイプリフォーム、IC 用リードフレームなどでした。金属の特性をいかした電子材料事業が当社の事業として加わったのです。

別子閉山と受け継ぐ精神

1973年3月、別子銅山は283年にわたる稼行の歴史を閉じました。この間の坑道延長は約700キロメートル、坑道は海面下1,000メートルの深部にまで達しており、産銅量は累計約65万t に上ります。別子銅山は、住友の諸事業の源流となるとともに、日本社会の発展にも貢献してきました。現在においても、別子銅山から受け継いだ精神は、住友金属鉱山の事業のなかで大きく活かされています。

東予製錬所の建設と操業開始

現在の東予工場

高度経済成長の下、年々増大する日本の銅需要に応え、かつ国際競争力を強化するため、1966年に産銅能力増強の基本計画が立案されました。そして、これまで住友の銅製錬を60年以上支えてきた四阪島製錬所を現状程度にとどめ、増強は新立地に求めることを決定しました。そして1971年、東予製錬所が完成し生産を開始しました。操業開始に先立ち行われた火入式では、四阪島製錬所の銅溶鉱炉から採火した火が用いられました。さらに遡れば、四阪島の火は1904年に別子山中の焼鉱窯から運ばれたものでした。住友の銅製錬の火は、四阪島から東予へと絶えることなく受け継がれたのです。

貿易自由化と経営政策の転換

貿易自由化

1959年、GATT(関税と貿易に関する一般協定)総会が開催され、欧米の先進諸国は日本に対して、貿易・為替の自由化を強く迫りました。競争力に乏しい日本にとって貿易自由化は大きな影響を与えました。非鉄業界でも、自由化によって割安な銅・ニッケルが無制限に輸入された場合、勝負にならないことは明白であり、死活問題となりました。

住友金属鉱山は、貿易自由化が現実的なものとなるにあたり、経営方針を大きく転換しました。

経営政策の転換(1) 国内鉱山の縮小

戦後、国内鉱山の開発を重点施策としてきましたが、これ以降国内鉱山の新規の探鉱を中止しました。同時に、国内の3つの鉱山を縮小し、2つの鉱山を閉山しました。

経営政策の転換(2) 海外原料の確保

海外原料の購入は増加していましたが、さらに開発資金を投融資しての買鉱が増加しました。産出電気銅に占める海外原料の比率は、1956年には17%でしたが、その後年々増えて1968年には83%を超えるようになりました。

経営政策の転換(3) 新規事業の拡大

これまで進められていた事業の他に、電子材料、貴金属触媒、伸銅などの事業を開始・拡充しました。

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