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環境保全の取り組みの歴史

住友は、別子煙害問題を如何に解決したか

明治時代、産業革命期の日本は急激な近代化の道をひた走っていました。元禄4(1691)年に開かれた別子銅山も、機械設備の導入、索道、鉄道の敷設などによって出鉱量の拡大が図られ、これに対応する製錬能力を確保するため、別子山中にあった製錬所は新居浜の沿岸部に移設されました。

明治時代の別子銅山

しかし、繁栄の象徴となるはずだった新居浜の製錬所から排出される亜硫酸ガスが周辺地域の農作物に被害を及ぼすという、予期せぬ事態が発生しました。当時は亜硫酸ガスの回収方法が確立されておらず、技術的に解決することは極めて困難だったため、時の住友総理事伊庭貞剛は、製錬所を四阪島へ移転するという決断を下しました。四阪島は、新居浜から約20キロ離れた無人島です。ここに製錬所を移転すれば、亜硫酸ガスは瀬戸内海上で拡散され、煙害が発生することはないと考えたのです。しかし、無人島に製錬所を作るには、港や道路、住宅をはじめとするインフラをいちから整備しなければならず、莫大な費用がかかります。実際にかかった総建設費は、当時の別子銅山の2年分の純利益に相当する約170万円という、まさに社運を賭けた大事業でした。

当時の住友総理事
伊庭貞剛

煙害問題は、周辺の農民に深刻な被害をもたらしますが、その一方で、産銅業は日本が世界の列強に対抗していくための基本となる事業であり、これを休止するわけにはいきません。このジレンマのなか、伊庭はあくまでも損害賠償で片づけることをせず、事業の利益をつぎ込んででも将来のための真の解決策を求め、煙害の根絶にこだわったのです。

煙害問題の拡大と解決への決意

四阪島製錬所(明治38年) 資料提供:住友史料館

しかし、明治38(1905)年に操業を開始した四阪島の製錬所は、予想に反して煙害を愛媛県の東予地方全体にまで拡大させることとなりました。瀬戸内海上で拡散されると考えた亜硫酸ガスが風に乗って、そのまま四国本土にまで流れてしまったのです。

農民達は、煙害の根絶と損害賠償を求めて激しい運動を繰り広げました。これに対して、時の住友総理事鈴木馬左也は、「(煙害の)除害方法については、住友家においても熱心に研究しており、また政府の調査会もこれに重きを置いて研究されることであろう。その方法が発明されれば、住友家は除害設備など少しも厭うところではない、たとえ煙害に対する損害を弁償する額以上であっても、これを支出して施設する覚悟である。」との決意で事態にあたりました。住友は、その後も煙害問題の完全解決まで、終始この姿勢を貫いたのです。昨今「CSR(企業の社会的責任)」が強く問われるようになってきましたが、住友の経営者は約100年も前から、これを意識して事にあたってきたといえます。

3代住友総理事
鈴木馬左也

明治43(1910)年、被害者農民との間で、損害賠償と亜硫酸ガス排出抑制のための操業制限に関する契約を結ぶ一方で、煙害克服に向けたさまざまな技術改良に着手しました。

まず、原料中の硫黄分を減少させるため、大正2(1913)年に住友肥料製造所を開設し、硫化鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、さらにこれから過燐酸石灰を製造することとしました。また、煙害の除去、軽減のため、いくつもの試験研究を実施しました。
これらの対策により、四阪製錬所から排出される硫黄量は、大正15(1926)年には大正8(1919)年の半分にまで減少しました。

六本煙突

写真:六本煙突

煙害克服に向けた取り組みの中では、従来一本の煙突から排出されていた排煙を数本の煙突に分離し、送風機で拡散して空中に放出することにより、亜硫酸ガスの濃度を薄めて煙害の軽減を図るという試みも行なわれました。この方法は35万円の巨費を投じて大正3年に実行に移され、海面から42メートルの位置に六本の煙突が立ち、送風機が取り付けられました。

しかし実際に稼動してみると、送風機で冷却された亜硫酸ガスは、煙突から放出されると直ちに低くたれこめて島を覆うとともに、凝集したまま気流に乗って海を隔てた被害地に達し、従来の一本煙突の時よりもかえって煙害が拡大するという結果を招くことになりました。結局この方法は効果がないことがわかり、わずか2年半で六本煙突の使用は停止されました。

ペテルゼン式硫酸工場、中和工場建設 − 完全解決への長い道

写真:四阪島製錬所

大正末、ドイツ人ペテルゼンが発明した塔式硫酸製造方法(硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方法)を導入することにより、四阪島製錬所はようやく煙害根絶のきっかけをつかむことができました。昭和2(1927)年にはペテルゼンと正式に特許実施契約を結び工事を実施、さらに選鉱操業の変更もあって、放出される亜硫酸ガスの量は減少し、またその濃度も希薄となり、もはや実害を伴う煙害は見られなくなりました。

さらに、昭和12(1937)年には中和工場の建設に着手しました。これは、溶鉱炉の煙突から放出される希薄な亜硫酸ガスをアンモニア水で中和して、すべて亜硫酸アンモニアの溶液として回収するものです。この設備は昭和14(1939)年7月に完成し、以後、亜硫酸ガスはまったく見られなくなり、ついにここにおいて、煙害の被害は根絶することができました。四阪島に製錬所が移転してから34年後のことでした。

現代の環境集煙装置
豊かな自然がよみがえった現在の別子銅山跡